マンダロリアン・バースの一角である『スケルトン・クルー』は視聴者数から見ると多少苦戦しているものの、スター・ウォーズ ドラマ史に残る傑作であった。過度なファンサービスも無い中で、新しいスター・ウォーズとしてのポテンシャルを十分に発揮し、最終話では大きな満足感をもたらした。この記事では総評として、本作を振り返りつつ、本作のテーマだった「おとぎ話」について掘り下げていく。
【ドラマ『スケルトン・クルー』のレビュー記事】
- 第1話「ホントの冒険ができるかも」
- 第2話「バリアを超えてはるか遠くへ」
- 第3話「航行に問題のあるとても面白い星」
- 第4話「アト・アティンは記憶にねえ」
- 第5話「お前たちは海賊を分かっていない」
- 第6話「また友達がいなくなる」
- 第7話「あたしたち絶対怒られる」
- 第8話「本当の正義の味方」
現実を知り成長する子供
本作の主人公は4人の子供たち、ファーン、KB、ニール、そしてウィムであり、本作の軸は彼らの成長に置かれていた。まずはそれぞれの足取りを追い、その冒険と成長を振り返ってみようと思う。
ファーンは本作を引っ張る姉御キャラであった。第1話ではバイクを乗り回してウィムからの羨望のまなざしを受け、彼の面白そうな発掘にも当然の権利かのように割って入る。そして第2話では迷子になった子供たちの船長として、信頼できない周りからみんなを守ろうと奮起する。が、第4話ではそんな彼女の弱さも垣間見えた。自分がしっかりしなきゃとの思いから一人背負い込み、思わず辛い現状に涙する。だが、第6話ではKBとのギクシャクから自分がいかに周りの声に耳を傾けていなかったことを自覚し、周りと協力することで見事に四人で「スケルトン・クルー」(船の最小乗員数という意味の英単語)となった。ファーンはこの冒険を通じて周りの話を聞くこと、周りを頼ることを知った。最終話にて、ファーンがバリア破壊について迷う母ファラに、銀河の正義を信じるように、そして自分の言葉を聞くように説得する展開からは、ファーンが一人で抱え込むリーダーでなくなったことがわかる。
そんなファーンの親友のKBは四人にとっての冷静な参謀だった。第3話では危険な大人であるジョッドと渡り合って彼を従えることに成功し、そしてキムからも貴重な連絡先を手に入れる。以降もその明晰な頭脳とメカニックの技術はたびたび一行を助ける。だが、第6話では表情に乏しい彼女の奥底の恐れが露になる。事故での怪我によりハンデを背負っていた彼女は再び友達を失うことを恐れ、ファーンに遠慮しがちになっていた。過去が明らかになったことにより、今までの彼女の知識や技術がハンデを補うための努力の賜物であることがわかり、より彼女が愛おしくなった。彼女もファーンとの仲直りによって成長を遂げた。その冷静さと有能さはそのままに周りを信用することを知り、最終話ではファーンの救出をウィムに託し、自分は自分にしかできないSM-33の修理と船の操縦を担って勝利に大きく貢献した。
ニールは、この四人の中で最も心優しく人当たりの良い人物だった。好きな女の子に話しかけることもできない「冴えない男の子」ではあるが、その人間性は気高いものだ。変わり者のウィム、突っ走るファーン、無表情なKBと一癖も二癖もある集団をまとめ上げていたのは彼の人の良さである。どこまでも優しい彼は、第四話のアト・アクランで危険な目にあっても自分を失わず、その率直で思いやりにあふれた言葉はヘイナに争いの終結を夢見させるには十分なインパクトを与えた。そして、SM-33が暴走した時もありったけの勇気を振り絞り仲間たちを助けた。第6話でも、彼の言葉はKBと仲違いしたファーンに届き内省を促す。最終話では大砲でみんなを援護するというこれまた勇気ある行動に出る。
そして、ウィムは第1話ではジェダイのおとぎ話にあこがれる周りから浮いた少年だった。仕事ばかりの父親とは不仲で、父のような大人になるためのレールが敷かれた現実に目を向けようとしない。ウィムは銀河のわくわくする冒険に心を躍らせ、「ジェダイ」であるジョッドも仲間に巻き込む。だが、彼はこの冒険で現実に直面する。第5話ではおとぎ話とは違う銀河の恐ろしさに一人涙する。ジョッドはそんな彼に現実は見方次第だと語る。ジョッドの言葉は彼自身のゆがみを表すものであったが、その後のウィムに良い影響を与えた。
第5話のジェダイだと信じていたジョッドの裏切りで、ウィムは物事がおとぎ話のようにいかないことを痛感させられた。だが、その直後の第6話でウィムはKBを助けたことで「ジェダイ」と呼ばれる。思い返せば、彼が人を助けようと思えるのはジェダイのように行動したいという思いがあった、おとぎ話があったからなのだ。特別な力がなくとも、彼はおとぎ話の英雄のような行動をとることができる。最終話にて彼は出たらめなジェダイの物語をジョッドに話し時間稼ぎを試みる。彼の口からジェダイを架空の存在とする嘘が語られる。だが、それはおとぎ話のすべてを否定したわけではない。ウィムはおとぎ話と現実の違いを認識しつつも、それでもおとぎ話にある真実に気づいた。ファーンが語っていたように、銀河には悪人ばかりではなく、人々の中には優しさがある。そして、自分が「ジェダイ」に憧れて行動したように、おとぎ話のような「本当の正義の味方」になろうとする者たちの到着を願った。それは現実への諦念でまみれたジョッドや大人にはたどり着けない境地であろう。子供ゆえの純粋な心で信じられたからこそ、彼らは勝利をつかむ。そして、彼らの物語は再びおとぎ話となる・・・。
親子離れし、与えられた物語から脱却する大人
本作を傑作たらしめている要素の一つは、本作が子供たちだけでなく、大人たちの物語でもある点だろう。特にウィムの父ウェンドルと、ファーンの母ファラにスポットが当たっており、親子関係に重点が置かれていた。
本作は大人たちにとって「子離れ」の物語であった。ウェンドルもファラも自分たちの子供に社会のレールに沿って歩んでほしいと強く願っていた。自分たちの目が届くところで、自分たちと同じような人生を送る、それが子供にとって幸せだと考えていた。だが、最終話にて二人はバリアを破壊する。それはアト・アティンというゆりかごから子供たちを解き放つことを意味する。同時にウェンドルとファラにとってもゆりかごから解き放たれることになる。監理官という偉大な「父」、「母」なる大地から彼ら自身も「親離れ」をする。
平和なアト・アティンは理想郷(ユートピア)のようで、明らかにディストピアだった。監理官という絶対的な存在にすべてをゆだね民主主義を放棄し、「大いなる事業」に寄与していると自分に言い聞かせ仕事にまい進する。だが、監理官はその「大いなる事業」がもはや機能しないであろうことを予想していながらそれを隠し通していた。つまるところ、彼らは何も考えないがゆえに人生の大半を無意味な仕事にささげていた。
ウェンドルはジョッドの「俺のためにお金を作っても生活は変わらない」という言葉に怒り、彼に殴り掛かる。お金を唯一絶対の目的とするジョッドとは違い、ウェンドルやファラは意味のある仕事に価値を見出していた。だが、前述したように彼らに与えられていた仕事の意味とは虚構であった。そんな彼らの仕事は最終回でようやく意味を持つ。ファラは次官だったからこそバリアを破壊する方法を知っていた。ウェンドルはレベル7のシステムコーディネーターだったからこそ、電源を復旧させることができた。彼らは自分の頭で考え行動したからこそ、初めて意味のある仕事を成した。大人たちは、監理官から与えられた物語「おとぎ話」から脱却し自らの意味を再創出した。
本作は大人たちにとっても脱却と再創出の物語である。親子離れをすることによって、「親」でも「子」でもない新たな人生を始める。監理官が与えてきた物語から離れることによって、自分で自分の意味を作り出す。そして、彼らは新たな物語を描き始める・・・
ジョッドが信じるおとぎ話の実在
本作におけるジョッドはおとぎ話を否定する存在であった。正義の象徴である青いライトセーバーを振り回して子供たちを恫喝し(一時的にではあるが)ウィムの持つおとぎ話のイメージを完全に破壊する。その行動はジョッド自身が語ったように、自分の過去に起因する。ウィムと同じような年頃の時、ウィムと同様にジェダイに憧れていた彼は本物のジェダイに拾われ希望を見出す。だが、彼の目の前でそのマスターが殺されたことでジョッドはおとぎ話を信じられなくなり、「現実」的な金銭にのみ執着するようになる。
一方で、ジェダイを実際に目にしたジョッドはおとぎ話の要素の実在を強く信じている一人でもある。彼はアト・アティンがおとぎ話にあるように宝の星であると信じ、子供たちとともにその地に足を踏み入れようとする。加えて、彼は海賊たちをおとぎ話で説得する。海を丸ごと買えるほどの無限の富が手に入るという明らかに非現実的なおとぎ話の物語で海賊を引き込もうとする。
この一見ちぐはぐに見える行動がジョッドという人間の本質であろう。彼は周りを傷つけて悦に浸るような殺人鬼ではないが、同時に善人と呼べるような人間でもない。子供たちに親を切り刻むのが楽しみと語り子供を屈服させるための行動をとるが、本当はアト・アティンの人々や子供たちが傷つくことを望んでいない。同時に彼はおとぎ話を否定しながら、どこかそこに救いを求めるような気持ちを持っているのだろう。ウィムが正義を信じると語っていた直後のジョッドの返答は、彼の本心が透けて見えていた。「銀河は暗く、ほんのわずかな光しかない」。そう彼は光の存在を信じていないわけではない。
敗北した後、彼がウィムへ向けた笑みのような表情はそんな彼の心からの表情であろう。ウィムがおとぎ話のような勝利を手にしたことをジョッドは喜んでいる。彼もおとぎ話が本当だったらよかったと思っていた一人なのだ。過去の自分と重ね合わせていたウィムが「本当の正義の味方」に助けられ、自分とは違う道を歩むのを喜んで送り出している。『スケルトン・クルー』というおとぎ話において、ジョッドは悪役であり、正義の勝利に彼の居場所はない。一人たたずみ自らの敗北を受け入れるしかできない悪役の精一杯のはなむけがあの表情である。
おとぎ話としての本作
本作にはまずおとぎ話を否定するような展開があった。ジョッドはジェダイではないし、すべてがおとぎ話のように簡単に進むわけではない。銀河は多くの闇がある恐ろしい場所だった。だが、同時にアト・アティン自体がおとぎ話の存在であるというプロットが、おとぎ話がすべて虚構ではないことを雄弁に語る。
だからこそ、最終話にてウィムが「本当の正義の味方」というおとぎ話のようなものを信じる展開を違和感なく受け入れられた。そして、ウィムたち子供の純粋な心は銀河を悲観する大人たちではたどり着けない結末をもたらす。同時に子供たちは『スケルトン・クルー』という新たなおとぎ話を作り出す。それは与えられた物語に縛られていたファラやウェンドル、すべてを悲観していたジョッドを否定し救う。だからこそ、本作は子供だけでなく、多くの大人の心をもとらえた。下手な作品では薄っぺらく見えてしまうような物語ではあるが、細部までこだわられたセット、緻密に計算されたプロット、俳優陣の見事な演技により、本作は語り継がれる傑作となっている。
おまけ:圧倒的なビジュアル
本作のビジュアルのすばらしさも脇に置くことはできない重要な要素だ。スター・ウォーズのドラマとしては、もっともビジュアル面で世界観を拡大した。予算の制約があるドラマでは、奥行きの感じにくい巨大スクリーンのボリュームや現実のロケ地での撮影がメインとなり、現実世界とスター・ウォーズが交じり合ったビジュアルが多かった(もちろんそれも「生活感のあるSF」として銀幕デビューしたスター・ウォーズの良さではある)。
しかし、本作においては新たなロケーションが探索され、特にポート・ボーゴやキムの天文台といった現実に存在しないはずなのに実在感のあるロケーションは強く印象に残った。本作が巧みにカリブの海賊や古風な冒険物語を引用した功績である。ここにアメリカだがどこか不気味なアト・アティン、その荒廃した姿であるアト・アクラン、リゾートを再解釈したラニューパなど現実とスター・ウォーズの融合したビジュアルも登場させるのだから、さすがとしか言いようがない。
また、本作のあちこちでは昔ながらの技術が使われていた。<オニックス・シンダー>は模型を作成した。キムもパペットだった。撮影現場でもニールのマスクをかぶっていた。ゴミガニのマザーはストップモーションだった。極めつけにガラスに描いた絵を映像と重ね合わせるマットペインティングまで使われた。これらの古風な技術を活用しつつ最新のCGも併用することで、昔懐かしいアンブリン風であり同時に古臭くはない映像を実現した。スター・ウォーズとはかけ離れたビジュアルもありつつも、スター・ウォーズらしいと思えたのはこの技術のバランスがあってこそだ。
そのほかにもネズミと共生しているSM-33というアイデアが素晴らしかったり、既存のエイリアンの使い方がうまかったり、カメラワークが巧みだったり、<オニックス・シンダー>の二段構えのデザインがイカしていたり、と良いところを上げようと思うと枚挙にいとまがない。本作を見終わったときの満足感に、この素晴らしいビジュアルは間違いなく寄与している。正直なところドラマでここまで仕上げられるのかという驚きは大いにあった。拡大しきったようにも思えたスター・ウォーズの世界観の中でここまでできるというのを見せつけられ、私はさらに今後のスター・ウォーズが楽しみになった。
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